2015年04月19日

宮城さん撮影終了

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宮城巳知子さんの撮影も3日目に入り、撮る方も撮られる方も呼吸が合ってきました。生い立ちから始まり米軍に保護されるまで、この3日間で宮城さんにたくさんの質問をぶつけました。
・ もの心ついた頃の沖縄の生活はどんなものだったのか?
・ 学校ではどのような教育を受けたのか?
・ 首里高等女学校での授業、運動会、遠足などの思い出は?
・ 1941年12月8日、日本軍によるハワイ真珠湾奇襲攻撃を知った時は?
・ 勤労奉仕で小禄飛行場滑走路整備に駆り出され、どんな作業をさせられたのか?
・ 1944年10月10日汽車で通学途中に機銃掃射を浴びた時は?
・ 1945年1月25日から受けた特訓の看護教育とは?
・ 1945年3月27日首里高等女学校卒業式はどこで行われたのですか?
・ 1945年4月1日米軍が本島中部西海岸に上陸した時は?
・ ナゲーラ本部野戦病院壕ではどんな仕事をさせられたのか?
・ 識名壕で注射器を手渡された時は?
 このような要領で、毎日2時間程宮城さんに質問を投げかけて撮影しました。当初4日の予定だった撮影も順調に進み3日で終えることができました。撮影が終わったのが丁度お昼時だったので、宮城さんが私たちにお昼を用意して下さいました。たくさんの揚げ物が盛られたプレートのテークアウトだかケータリングで、沖縄ではポピュラーなのだそうです。「オードブル」とか「パーティープレート」とか呼ばれていたような気がします。
posted by 17才 at 16:46| Comment(0) | 日記

2015年04月18日

屋我地島のサトウキビ畑

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 宮城巳知子さんが身を隠したり、突っ切ったりした主観カットや、イメージカットとして使えそうなサトウキビ畑を探していました。 勿論、これまで南部に行っていたので、何度もサトウキビ畑を見かけてはいました。しかしどの畑も視界に電線や電柱が入ってきてしまったり、畑を抜ける道が舗装されていたりして、そそられる畑はありませんでした。
フィルムオフィスの方が教えて下さった何ヶ所かのサトウキビ畑の中で、北部の屋我地島がいいのでは?という印象を受けました。拓郎さんと二人で1時間ちょっと車を走らせ屋我地島まで行ってみました。

 屋我地島の北端には、かつて「癩病」と呼ばれて差別・蔑視された「ハンセン病」患者を収容していた国立ハンセン病療養所沖縄愛楽園がありました。対岸には軍の施設のある運天港があったため、1944年10月10日米軍による空襲(十・十空襲)で、その施設の約90%が破壊されました。

 午後3時頃に宮城さんの撮影を終えて、嘉手納町から北を目指し、名護市を通り抜け、真喜屋から110号線に入り、奥武島を通過すると屋我地島でした。さてここからは、これまで培ってきた経験と勘がものを言います。建造物のない方へ、ない方へと丘を上ります。いいかな?と思って車を停めて外にでると、どこからか耕運機のエンジン音が聞こえてきて人影が見えたりします。かなり広大なサトウキビ畑を車で走り回り、ようやく何ヶ所か撮影に耐えうるポイントを見つけました。
さあ、日が沈むまでにカットを稼ぐぞーっ。
posted by 17才 at 22:17| Comment(0) | 日記

2015年04月17日

喜屋武岬

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喜屋武岬。海水面から屹立したこの地の淵に立つと、ふーっと体の力が抜けていく。はるか下の海面に吸い込まれそうで、飛び込んではならないのだと意識していないと、自分を解き放ってしまいそう。
70年前にどれだけの人が飛び込んだのだろう。
アメリカ軍に見つからないように、じーっと崖の窪みに身を隠し続けた人。
何か食べられるものはないかと、海岸を彷徨ったり。
必死で生きようとする人。
教えられた通りに自決した人。
沖縄の中部から南へ南へと追い込まれて行き、最期に着いたのが摩文仁、荒崎海岸であり、この喜屋武岬だったのです。

私たちが撮影で訪れた時には、何組かの家族連れが来ていました。小さなグラウンドというか、公園のように整備されていて、子供たちが奇声をあげて走り回っていました。
 沖縄戦では壕や窪みに身を隠していても、泣くと敵に見つかるからと、一緒に隠れていた日本兵に首を絞められたりして殺された赤ん坊が少なくありませんでした。
走り回る子供たちの声が録音されてしまうので、子供たちの興奮が収まるのを待って撮影しました。カメラフレームに収まりきらないその風景はまさに絶景でした。
posted by 17才 at 22:53| Comment(0) | 日記