2015年04月13日

ずゐせんの塔

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2012年8月17日。撮影を始める前にお参りをしようと決めていた場所がありました。宮城巳知子さんのご学友33名と首里高等女学校の教職員並びに同窓生の慰霊碑、ずゐせんの塔です。近くにあるひめゆりの塔の前の売店で献花を買ってずゐせんの塔に向かいました。
8月の晴れ渡る青空をバックに立つずゐせんの塔の石碑の正面には、17才になるかならないかで無念にも命を落とされた乙女たちの名前が刻まれていました。宮城巳知子の後ろで日向ぼっこをしていて爆弾の破片が肩に突き刺さり命を落とされた石川節ちゃんもその中の一人です。

道案内と運転を申し出て下さった宮城巳知子さんの娘婿、成井俊美さんが、「米須壕がすぐ近くなので、行って見ましょう」と言うので、案内して頂きました。拓郎さんと壕の入り口と道の反対側の畑をかじったワイドショットを撮り始めました。成井さんが携帯で電話をしていたので、声が入ってしまうから、離れたところで電話をするようにお願いしました。戻ってきた成井さんが「すいません。ここは米須壕じゃないみたいです。」「宮城に聞いて確認したら、ここはアブチラ壕で、米須壕ではないそうです。」ということでした。

それも仕方のないことでした。毎年夏休みには奥さんの実家である沖縄の宮城家でのんびりされていた成井さんでしたが、宮城巳知子さんが沖縄戦で瑞泉学徒隊として逃げ惑った壕を訪れたことがなかったのです。



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2015年04月12日

沖縄入り

渡久地海岸.JPG
きょう4月12日は宮城巳知子さんのお誕生日です。ご家族の方のお話では、昨年12月に髄膜炎を患い、高熱で意識もない状態に陥ったそうです。幸い、後遺症は残らなかったそうですが、その後は脚がすっかり衰えてしまい、現在ウィークデイは老人介護施設でリハビリなどをして過ごされ、週末だけご自宅に戻られているとのことです。

2012年8月16日朝、都内で撮影機材を引き取り羽田空港に向かいました。
拓郎さんと二人で那覇空港に降り立つと、自ら運転手を申し出て下さった宮城巳知子さんの娘婿、成井俊美さんが撮影機材を持った私たち二人を出迎えて下さいました。予めアポイントメントを取ってあった沖縄フィルムオフィスに向かい、フィルムオフィスの方々と、私たちが撮影を希望しているロケーションの撮影許可が取れているかどうかなどの擦り合わせ。1945年4月1日に連合軍が上陸した海岸がどこだったのか、当時の民家が撮影できるところ、翌日ロケハンできるのはどこの壕なのかなどを確認しました。


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2015年04月11日

女学校

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沖縄で撮影を開始するにあたって、宮城巳知子の語りだけではなく、彼女が弾雨に追われた地、ゆかりのある地での撮影も予定していました。今までの経験から、撮影を希望していたロケーションの中で、最も難易度が高いのは女学校でした。
戦後は男女共学となっていて、女学校はありません。あくまでもイメージ映像として使うのですが、できるだけ近代的ではない学校での撮影を考えていました。

沖縄にはOCVB沖縄フィルムオフィスという、沖縄で撮影をする時に、基本的な部分をサポートしてくれる組織があります。撮影に協力してくれる学校を探すにあたり、このフィルムオフィスに連絡してみました。「撮影に協力してくれるかどうかはわかりませんけど」という前置き付きで、フィルムオフィスがストックしていた5校ほどの学校の外観写真をメールしてくれました。
割合教室の感じがいい学校、運動場がいい感じの高等学校、高校に見立てるにはきびしい学校などいろいろでした。一番いいと思った高等学校は、沖縄本島の北の方にありました。撮影に協力して貰えるかどうか、フィルムオフィスから学校に打診して貰うことになったのですが、なかなか返事が貰えませんでした。学校からの返事が遅いのか、フィルムオフィスが忙しくてなかなか学校に打診できなかったのか、どちらだったのかは分かりません。結局撮影間際まで、どこの学校で撮影ができるのか分かりませんでした。校舎や校庭だけの撮影で、生徒を撮らなければ撮影を許可しますと言ってくれたのが、沖縄県立首里高等学校でした。
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